森鴎外の名前は知っていても、読んだのは教科書の『舞姫』だけ。文語の文章で止まった記憶があり、次の一冊に手が伸びない。そういう方は少なくないはずです。
鴎外の小説の多くは、『舞姫』とは違って口語で書かれています。しかも、江戸や中世を舞台にした歴史小説と、明治の東京を舞台にした小説の両方があり、文章の表情もかなり違います。この記事では『舞姫』以外の4作品を取り上げ、長さと語り方の違いから最初の一冊を選びます。
紹介は物語の入口までにとどめ、結末や後半の出来事には触れません。『舞姫』そのものを原文で読み直したい方は、『舞姫』を初めて読む人へで文語文の読み方を扱っています。
長さと時代で、最初の一冊を決める
| 読みたいもの | 最初の候補 | 長さの目安 | 舞台 |
|---|---|---|---|
| 一晩で読み切れる一篇 | 高瀬舟 | 短い。一回で読める | 江戸時代の京都 |
| 明治の東京と、人の心の動き | 雁 | 中くらい。二十四の章 | 明治十三年の東京 |
| 記録のような文体の歴史小説 | 阿部一族 | 中くらい | 寛永年間の肥後 |
| 昔話のように進む物語 | 山椒大夫 | 中くらい | 中世の越後から丹後 |
4作品はいずれも青空文庫で新字新仮名のファイルが公開されています。『舞姫』のような文語ではなく、現代の小説と同じ口語の文章です。ただし歴史小説には官職名や古い言い回しが多く、現代小説の『雁』には明治の東京の地名や暮らしの言葉が出てきます。どちらが読みやすいかは、人によって分かれます。1234
以下の順番は編集上の提案で、発表順や評価の順位ではありません。
1. 『高瀬舟』短い一篇で、鴎外の語り方を知る
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟で、遠島を言い渡された罪人を大阪へ送る舟でした。作品は、まずこの舟と護送の慣例を説明する文章から始まります。ある春の夕方、喜助という三十歳ほどの男が一人で舟に乗り、護送役の同心羽田庄兵衛は、弟殺しの罪人だと聞いていたこの男の様子を不思議に思います。1
事件が次々に起きる小説ではありません。舟の上で、庄兵衛が喜助を観察し、やがて話を聞くという構成です。読むときは、庄兵衛の疑問がどこから生まれ、喜助の言葉を聞いてどう変わっていくかを追ってください。語り手は二人の外側にいながら、庄兵衛の考えの中へ入っていきます。この距離の取り方が、他の作品でも繰り返し現れる鴎外の語りの特徴です。
初めて読む方は、話の結論を急いで要約せず、庄兵衛が自分の暮らしと喜助の暮らしを比べる箇所で一度立ち止まってみてください。短い作品なので、読み終えたあとに冒頭の説明文へ戻ると、最初に読んだときとは違う意味に見えてきます。鴎外自身がこの作品の題材について書いた「高瀬舟縁起」も同じ作者ページから読めます。5
2. 『雁』語り手の「僕」と、窓の女
「古い話である」という一文で始まり、語り手の「僕」は、それが明治十三年の出来事だと記憶している理由を説明します。僕は東京大学の鉄門の向かいにあった上条という下宿に住んでいて、壁一つ隔てた隣に岡田という医学生がいました。岡田は夕食後に決まった道筋を散歩し、無縁坂を通ります。その坂の途中の家の窓に、一人の女がいる。ここまでが、物語の入口です。2
全体は壱から弐拾肆まで、二十四の章に分かれています。各章は長くないので、一日に二、三章ずつ読むこともできます。読みどころは、語り手が「僕」であるのに、話の中心が岡田と窓の女にあることです。僕が直接見聞きしたことと、あとから誰かに聞いたらしいことが混ざって語られますから、「この場面を僕はどうやって知ったのか」と考えながら読むと、語りの仕組みが見えてきます。
女の側の事情は、章が進むにつれて別の視点から語られます。先回りして人物の関係を調べるより、本文の順番で知っていくほうが、この作品の構成を味わえます。明治の東京の地名が多く出てきますが、場所を正確に知らなくても読めます。無縁坂、不忍池、湯島天神といった名前は、散歩の道筋をたどる目印だと考えてください。
3. 『阿部一族』記録のように書かれた武家の物語
寛永十八年の春、肥後の大名細川忠利が病にかかります。冒頭は、将軍家からの見舞いの手配、忠利の死、葬儀の日程を、日付と役職名を積み重ねて記録のように述べていきます。続いて、主君のあとを追って死ぬ「殉死」が、この家中でどのような掟のもとに行われていたかが説明され、殉死を願い出ても許されなかった阿部弥一右衛門という家臣が登場します。3
人物の心情を長く描く小説を期待すると、冒頭の固い文体に戸惑うかもしれません。この作品は、出来事と人の振る舞いを淡々と並べ、評価の言葉を控えることで読者に判断を委ねる書き方です。名前や官職をすべて覚える必要はありません。細川家の当主と、阿部家の人々、それぞれの立場だけ押さえれば、筋は追えます。
読むときの手がかりは、「許す」「許さない」という言葉がどの場面で誰から出るかです。主君の一言が家臣の一生を決める世界で、それがどう連鎖していくか。歴史小説の入口としては、青空文庫で読む歴史小説で扱っている他の作家と読み比べるのも一つの方法です。
4. 『山椒大夫』昔話の骨格を、鴎外の文章で読む
越後の道を、珍しい旅の一行が歩いています。三十歳を過ぎたばかりの母、十四歳の姉、十二歳の弟、それに四十歳くらいの女中。笠と杖の旅姿が人目を引く一行です。姉の名は安寿、弟は厨子王。説話として知られる物語を、鴎外は旅の途中の情景から語り始めます。4
『阿部一族』とは文体が変わり、情景の描写と会話が中心です。秋の日和に乾いた道、夕日のさす藁葺きの家。こうした描写が、人物の身に起きることをいっそう強く感じさせます。筋を知っている方も多いと思いますが、本文で確かめたいのは、どの場面をゆっくり書き、どの場面を短く済ませるかという配分です。
子どもを主人公にした物語ですが、子ども向けの再話とは別のものです。一家が離れ離れになる場面以降は、厳しい出来事が続きます。それでも文章は声を荒らげず、姉と弟のやりとりを静かに描いていきます。短い章立てはありませんが、場面が切り替わる箇所が区切りになるので、一度に全部読まなくても構いません。
読む前に知っておきたい内容
4作品とも、死をめぐる題材を含みます。『高瀬舟』は冒頭で弟殺しの罪が示され、その事情が語られる作品です。『阿部一族』は殉死と切腹を主題にしており、武家の人々が命を落とす場面が続きます。『山椒大夫』には人買いと、子どもが過酷な扱いを受ける場面があります。『雁』では、女性が親のために妾になる経緯が語られ、当時の身分や職業をめぐる言い方がそのまま出てきます。
いずれも時代背景の中で書かれたもので、記事ではこれらを事実として記しています。今日こうした題材を読みたくない方は、先に別の作品を選んでください。『高瀬舟』の旧字旧仮名版も公開されていますが、初めての方には新字新仮名版をリンクしています。表記の違いは青空文庫の「新字新仮名」「旧字旧仮名」とはで説明しています。
選んだ作品をEPUBで読む
本文リンクでまず冒頭を試し、続きを普段の読書環境で読みたくなったら図書カードからテキストZIPを入手します。青空→EPUBで変換し、生成されたEPUBをBlueReaderへアップロードしてください。サーバーでの解析が終わると本棚から開けます。同じアカウントなら、別の端末からも続きを読めます。6
操作の手順は青空文庫をEPUBに変換してBlueReaderで読む方法にまとめています。『雁』のように章の多い作品は、EPUBにすると目次から読んだ章へ戻りやすくなります。
最初の一篇が合わなくても、鴎外全体の結論にする必要はありません。『高瀬舟』の語り方が気に入れば『阿部一族』へ、『雁』の「僕」という語り手が気になれば『舞姫』の「余」へ戻ってみる。そうした選び直しができる作家です。
Footnotes
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森鴎外『高瀬舟』、青空文庫。本文、図書カード No.45245。新字新仮名。冒頭の説明と人物の紹介、初出(中央公論 1916年1月)の確認に参照。 ↩ ↩2
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森鴎外『雁』、青空文庫。本文、図書カード No.45224。新字新仮名。章立て(壱から弐拾肆)と冒頭の人物の確認に参照。 ↩ ↩2
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森鴎外『阿部一族』、青空文庫。本文、図書カード No.673。新字新仮名。冒頭の構成と人物の確認に参照。 ↩ ↩2
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森鴎外『山椒大夫』、青空文庫。本文、図書カード No.689。新字新仮名。冒頭の情景と人物の確認に参照。 ↩ ↩2
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森鴎外『高瀬舟縁起』、青空文庫。本文、図書カード No.46234。新字新仮名。作者自身による題材の説明。 ↩
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BlueReaderの青空文庫EPUB変換ガイド。青空→EPUBによる変換、EPUBのアップロードとサーバー解析、同じアカウントでの読書継続について。 ↩