永井荷風は、東京の町を歩く作家として知られています。ただ、代表作とされる『濹東綺譚』は題名の字が読めず、随筆『日和下駄』は地名ばかりで敷居が高そうに見え、どこから入ればよいか迷う方が多い作家でもあります。
この記事では、青空文庫で公開されている小説『濹東綺譚』『すみだ川』と随筆『日和下駄』の三作を取り上げます。それぞれの冒頭がどう始まり、どんな単位で区切られているかを比べ、小説から入るか随筆から入るかを決める材料にします。物語の結末や終盤の出来事には触れません。
三作の共通点は、文章が歩く速さで進むことです。出来事を急いで追う小説を期待すると、立ち止まる箇所が多く感じられるかもしれません。その立ち止まり方を楽しめるかどうかが、荷風が合うかどうかの分かれ目になります。
小説から入るか、随筆から入るか
| 読みたいもの | 最初の候補 | 分量の目安 | はじめに注目すること |
|---|---|---|---|
| 作家の一人称で町を歩く小説 | 濹東綺譚 | 全十章と「作後贅言」 | 語り手が小説を書く過程と散歩の重なり方 |
| 筋のない文章で東京を眺める | 日和下駄 | 序と第一から第十一 | 章題ごとに視線が何に向くか |
| 川のそばで暮らす人々の物語 | すみだ川 | 全十章と二つの序 | 季節の移りと人物の気分の対応 |
分量は青空文庫の本文の章立てから数えたものです。三作とも新字新仮名で公開されています。123
1. 『濹東綺譚』小説を書く人が、小説の中を歩く
「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない」という一文から始まります。語り手は年配の作家で、活動写真の看板を見るために浅草公園へ行き、そのはずれで声をかけてきた男を追い払うために、口から出まかせに行き先を告げます。行き先の定まらない散歩の方向が、この一言で決まってしまう。小説の最初の章は、こうした偶然の連なりとして書かれています。1
語り手は作中で「失踪」という小説を書いている最中で、その登場人物種田順平について考えながら町を歩きます。やがて向島の玉の井で、お雪という女性に出会います。実際の散歩と、書いている小説の構想とが同じ文章の中で行き来するので、どちらを読んでいるのかを意識しながら進むと、構造がつかめます。
読むときは、天候に注意してください。雨、蚊、夕風、季節の変わり目が、人物の出入りと会話の調子を決めています。筋を追うというより、同じ町に何度か通って、そのたびに見えるものが変わるのを確かめる読み方が向いています。
本編の後ろに「作後贅言」という文章が付いています。作者が題名の「濹」という字の由来や、向島の地名について語る部分で、本編を読み終えてから目を通すと、作品がどんな土地の記録として書かれたのかが分かります。「濹」は常用漢字表にない字で、青空文庫ではこの字がそのまま表示されます。検索で見つからないときは、図書カードの「作品について」に「ぼく東綺譚」という表記もあることを覚えておくと役に立ちます。
2. 『日和下駄』好きな章題から開いてよい
「人並はずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」と始まる随筆です。副題に「一名 東京散策記」とある通り、東京市中を歩いて見たものを章ごとに集めた本で、第一「日和下駄」に続いて、「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水 附渡船」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽 附富士眺望」と、章題がそのまま目次になっています。2
序文によれば、雑誌「三田文学」に連載した文章を一冊にまとめたもので、書いた当時の町の景色がやがて壊されて跡形もなくなることを見越して、起稿の年月を記しておく、と作者は書いています。読む側は、消えることを前提に書かれた記録として読むことになります。
この本は順番に読む必要がありません。坂の多い町に住んでいる方は「坂」から、川や橋が好きな方は「水」から開いてください。第二「淫祠」は、裏町の角に残る小さな祠や石地蔵を扱う章で、作者がなぜそれを銅像より好むのかが語られます。章題の字面だけで内容を決めず、一度は開いてみてください。
地名が分からなくても読み進められます。知らない町名は、その場所に何があったかの描写から想像するだけで十分です。『濹東綺譚』の語り手が歩く下町の地理を先に知りたい方は、この随筆を地図代わりに読む順番もあります。
3. 『すみだ川』夏の終わりから始まる人物の物語
俳諧師の松風庵蘿月が、今戸で常磐津の師匠をしている妹を盂蘭盆にも訪ねずにしまったことを気にしている、という場面から始まります。夕方になるのを待って家を出ても、涼み台で声をかけられるまま話し込んでしまう。この冒頭の数段落だけで、蘿月という人物の性格と、季節が秋へ傾き始めた町の空気が伝わります。3
蘿月が土手を越えて渡船に乗り、妹の家の軒燈を見つけるまでが第一章です。妹のお豊、その息子の長吉、そしてお糸という若い女性が物語の中心になります。三作の中では、人物同士の関係を追う小説として最も読みやすい作品で、荷風を小説家として知りたい方の入口に向いています。
本文の末尾には「第五版すみだ川之序」と「すみだ川序」という二つの序文が収められています。前者で作者は、外国から帰って来た当座に毎日散歩に出ていたこと、隅田川の両岸の荒廃した風景と、子どもの頃に見覚えた景色の記憶とを合わせてこの小説を構想したことを書いています。本編を読んでから序文を読むと、風景の描写が多い理由が納得できます。
青空文庫には、同じ作品の新字旧仮名版も別の図書カードで公開されています。旧仮名で読んでみたい方はそちらを選べます。表記の違いについては、青空文庫の表記の違いを説明した記事を参考にしてください。4
三作をつなげて読む
三作には、歩く人と、歩く場所としての東京が共通しています。『日和下駄』で作者が眺めた坂や水辺や路地は、『すみだ川』と『濹東綺譚』で人物が行き来する舞台でもあります。随筆で見た場所を小説で歩き直す、あるいは小説で気になった地名を随筆で確かめる、という往復ができます。
| 先に読んだもの | 次に合う一作 | つながり |
|---|---|---|
| 日和下駄 | すみだ川 | 隅田川の両岸と渡船 |
| すみだ川 | 濹東綺譚 | 向島周辺と、年を取った語り手の視線 |
| 濹東綺譚 | 日和下駄 | 散歩の方向が決まる偶然と、章題ごとの視線 |
荷風と同じ時代に、人物の内側を近くから書いた作家を読み比べたい方は、田山花袋の入門もあわせてどうぞ。同じ時代の小説でも、語り手の距離の取り方がまったく違います。風景を読む小説をもっと探したい方には、風景と日常を描いた作品の案内があります。
読む前に知っておきたい点
『濹東綺譚』と『日和下駄』の図書カードには、今日からみれば不適切と受け取られる可能性のある表現が含まれる旨が記されています。『濹東綺譚』は、向島寺島町の私娼街を舞台にした作品で、そこで働く女性との交渉や生活が描かれます。『日和下駄』には、当時の人々や職業を見下ろすような言い回しが残っています。『すみだ川』は、芸者や役者の世界が人物の進路に関わる作品です。いずれも時代の表現をそのまま残して公開されており、作品の一部として読むことになります。123
選んだ作品をEPUBで読む
本文リンクでまず冒頭を試し、続きを普段の読書環境で読みたくなったら図書カードからテキストZIPを入手します。青空→EPUBで変換し、生成されたEPUBをBlueReaderへアップロードしてください。サーバーでの解析後に本棚から開けます。『日和下駄』のように章ごとに読む本は、目次から好きな章へ移動し、別の端末からも同じ位置から続けられます。5
操作は青空文庫をEPUBに変換してBlueReaderで読む方法にまとめています。三作を読み切ることを目標にせず、まずは一つの章を、作者と同じ速さで歩き終えてください。
Footnotes
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永井荷風『濹東綺譚』、青空文庫。本文、図書カード No.52016。冒頭の場面、章立てと「作後贅言」、表記(新字新仮名)、備考の確認に参照。 ↩ ↩2 ↩3
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永井荷風『日和下駄 一名 東京散策記』、青空文庫。本文、図書カード No.49658。序文、章題、表記(新字新仮名)、備考の確認に参照。 ↩ ↩2 ↩3
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永井荷風『すみだ川』、青空文庫。本文、図書カード No.50556。冒頭の場面、章立てと二つの序文、表記(新字新仮名)の確認に参照。 ↩ ↩2 ↩3
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永井荷風『すみだ川』(新字旧仮名)、青空文庫。図書カード No.50448。旧仮名版の所在確認に参照。 ↩
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BlueReaderの青空文庫EPUB変換ガイド。青空→EPUBによる変換、EPUBのアップロードとサーバー解析、同じアカウントでの読書継続について。 ↩